長慶寺本堂・薬師堂

熊谷市指定有形文化財・建造物 令和2年8月28日指定

長慶寺本堂 長慶寺薬師堂

長慶寺本堂・薬師堂は、江戸時代中期に、熊谷地域をはじめ北関東で広く活躍した、上州花輪村の彫刻師の祖である石原吟八郎と弟子たちを含む技巧派集団と、国宝「歓喜院聖天堂」の棟梁の林兵庫正清らを中心に建立された。

長慶寺本堂は、約140mの規模で、六間の前面(南面)の外陣と、三室に区分され、中央には内陣が置かれている。寛政2年(1790)の知行所に提出された『絵図間数書』には、現存の建造物と推定される本堂が薬師堂と回廊で接続していることが確認できる。妻沼聖天山の歓喜院聖天堂の建立期の棟梁、彫物師集団の系譜を示す建築資料の価値を有する。江戸時代後期に増補された格天井絵と欄間彫刻も秀逸である。

長慶寺薬師堂は、享保18年(1733) 2月に建立された。約30㎡の規模で、桁行三間・梁間三間、入母屋造の桟瓦葺で妻側を正面(南面)としており、そこに一間の向拝が備わる形態である。旧来の茅葺から瓦葺に変更された。外面の蟇股と呼ばれる部位には十二支の彫刻が配置されている。聖天堂建立以前の時期の棟札等が発見されていることからも、薬師堂の建立が聖天堂の技術的基礎を試行する実例としての価値がある。また、薬師堂の各所に配された意匠とともに、内部の中央に施工された厨子の構造の双方に見られる技術は、他の類例と比較しても高いものである。

 

 

長慶寺薬師堂厨子

熊谷市指定有形文化財・歴史資料 令和2年8月28日指定

長慶寺薬師堂厨子

長慶寺薬師堂厨子は、薬師堂の中央北側に位置し、一間社造、正面千鳥破風付の銅板葺き屋根が上部に作られている。須弥壇上に配置され、薬師如来立像を収蔵している。建立時期は薬師堂と同一であると推定される。

薬師堂と同じく上州花輪村の彫刻師集団によって制作され、高度な技術が厨子の各所に用いられている。薬師堂内墨書には、「石原吟八(郎)・板坂伊平次・新井孫四郎」などの彫刻師の名前が確認できる。これは薬師堂と厨子の制作を関連付けるものと推定される。意匠については、木鼻彫刻などの彫技法をはじめ、彩色・金属細工の技法も精緻で、社寺建築の工法を凝縮した特質性が感じられる。

江戸時代中期以降における改修の歴史に関する情報が、部材の変遷等からも明らかになっており、建造物の保存が維持された上で、地域の信仰の拠点として現在まで引き継がれてきた文化性は意義深いものである。


令和3年3月 熊谷市教育委員会

 

 

僧形庚申塔そうぎょうこうしんとう

熊谷市指定文化財・考古資料 昭和53年8月11日指定

僧形庚申塔

庚申待こうしんまちは、庚申の日に眠らずに身を慎む習俗。 眠ると人体に潜む三戸の虫が天帝に罪を告げるといわれる。庚申塔は、庚申信仰に基づいて建てられた石塔で、庚申待を三年間連続して行った際に造立されることが多い。

当像は、舟形後背こうはいの塔身上部に二鶏が向かい合い、主尊は僧形で四本の手を持ち、前手は印を結び、後手は右に棒、左に宝輪を持つ。 腰部には猿が配される。上部には五種の種子しゅじ梵字ぼんじ一字で仏・菩薩を表すもの)、右に「建立庚申尊像二世安楽処」、左に「寛文元年(1661)初冬吉日願主敬白」と彫られる。 西城本郷の庚申講員が本郷四つ辻道路脇に建てたもので、明治初期に現在地に移った。

庚申塔は江戸時代に多く造られたが、青面金剛しょうめんこんごう猿田彦神さるだひこのかみを主尊とするものが多く、僧形は珍しい。


平成18年3月 熊谷市教育委員会